日本古来の伝統とか文化。

 

様々な職種や業界に根付いているものです。

 

私たちが消費者として恩恵を受けるものの中にも、伝統や文化を大切にしていたり、新たな価値観を見出していて元気を取り戻している産業や商品があるものです。

 

 

 

たとえば、巧の技。

 

テレビで紹介される老舗の味みたいなのって、ついつい惹かれたりしませんか?

 

「創業50年のこの焼き鳥屋は、開店以来、タレを継ぎだし、肉は企業秘密の方法で美味しさを保っている」みたいな。

 

 

 

また、最近ではこれまでもその地域に当たり前に存在していた農水産品を、ブランド化して製品にすることで、新たな価値を見出しているなんていうことも珍しくなくなりました。

 

 

 

私たち教職員組合が教育を語る理由も、こうした伝統や文化の側面、そして時代の変化という今日的な課題を乗り越えて本質をつかむというあたりにあるのです。そうした意味では、巧の技とかブランド化に通じるところがあるような気がします。

 

 

 

教育には「不易と流行」という言い方があるように、教育基本法改正や新指導要領によって、教育のあり方が変化させられている側面がある一方で、私たちの運動の歴史そのものが拠り所になる場合もたくさんあります。

 

 

 

いま、教職員組合離れが進んでいます。

 

運動が古臭く見えるからかもしれません。

 

教師の多忙さのせいかもしれません。

 

もしかすると、もっと違う部分に理由があるのかもしれません。

 

 

 

しかし、大切にしたいのは教育が持つ「人を育てる」、「子どもたちを内から外へ導いていく」という営みの専門性を高めるために、あるいは、そのために必要な教育条理を広め合うために、教職員組合運動は欠かせないということです。

 

 

 

教育って、「老舗の味」みたいに見えるものでも味わうものでもないっていう難点があるものの、「人格の完成」の観点を持って古来から大切にされてきた教育を考え合うということは、豊かな営みであり、ひとりひとりの先生方の実践に跳ね返っていくものです。

 

 

 

教職員組合として、教育を語ることを大切にしていきたいものです。

 

宗谷教組の1年間は
「3月はじまり」なので、2月は『年度末』となります。
今年度のまとめをしながら、新年度の計画を立てる日々です。
 

さて、最近の宗谷教組でよく考えているのは
「教育課程づくり」のことです。

特に、「子どもたちの実態をもとに」ということの具体化の方策を考えています。
そうした中で、子どもたちの集団性を育むことについて
思いを巡らせたりします。

 

新指導要領に基づく様々な学習形態について、
そうした本を見ていると、
「子どもは、すでに学ぼうとしている存在」
というようなニュアンスを感じる時があります。

 

実際は、
朝、なんとなく気持ちが高まらなかったり、
おうちでイヤなコトがあったろうに、それでもがんばって学校に来ていたり、
落ち着かなかったり、気持ちここにあらずだったり、
もちろん、なんかおだってしまったり…と
子どもですから、いろいろあります。

 

そこの部分を、「みんなでがんばろう」と
気持ちを高めたり、切り替えたり、関わり合ったりすることで、
学校は成り立っています。

 

 

学習形態の話になると、そうした「生々しさ」がない気がしてなりません。

小学校や中学校で言えば、集団づくりの視点もありますよね。
低学年の「けんかしちゃった。『ごめんね』⇔『いいよ』」や
中学年の徒党を組みたがるお年頃からの、「個性」を意識する高学年へ。

子どもたちは、そうして、人との関わり方を学んで大きくなっていくものです。

 

 

ある認定こども園での話です。
0~2歳の時期を保育園で過ごした子どもたちは、
「2歳児」の学級を修了すると、幼稚園に進級します。
 

 

同じ建物の中に「年少さん」のクラスもあるものの、
ひとつのけじめの時期を迎えます。
 

 

保育園のときは、
気持ちを落ち着かせるためになんとなく持ってきていた『おもちゃ』も、
幼稚園では持ってきてはいけない約束になっています。

 

「幼稚園への進級」を前に、
先生方と子どもたちは、
『春から行く幼稚園はおもちゃを持っていけないから、
今からみんなで我慢できるよう練習しようね。
みんなできるかな?』
『ハーイッ』
という確かめをするそうです。

 

全員が3歳になろうかという春に、
子どもたちは先生方と「おやくそく」という形で、
生活の仕方の「合意」ができることは素晴らしいことです。

 

 

幼い頃からのこうした経験が、
集団性を高めていくのかな…と思います。

 

新指導要領に基づく学習施策や、
いわゆる「学校スタンダード」など、
こうした集団づくりのあり方を意識していないと、
頭ごなしの指導になってしまいそうなきっかけはたくさん転がっています。

  

だからこそ、私たちは子どもたちと
どんな関わり合いを持って、どんな集団性を高めていきたいか、
それをきっかけとしてどんな学びを紡いでいくのか、
考えながら教育実践を深めていきたいものです。

 

 

12月23日から24日にかけて東京で行われた「民主教育研究所」主催の全国教育研究交流集会に、宗谷からないとうが参加しました。

 

 

 

「民主教育研究所」は、雑誌「人間と教育」を季刊で発行していたり、全国的に民主教育が進むようリーダーシップを発揮している組織といえるでしょう。宗谷では教職員組合運動として、教育研究運動を位置付けていますが、もっと広く多様な連帯ができるような工夫をしながら教育研究を進めている集まりです。

 

北海道では、「北海道子どもセンター」が今後、こうした機能を合わせ持つことが先日の総会で語られていましたが、全国の都府県にはそれぞれの地元に根差した民主教育のセンターがあることが多いです。

 

 

 

その全国集会として、学習指導要領改正や道徳の教科化など、今年気になるトピックが扱われるということで、宗谷から参加させていただきました。

 

 

 

主な参加者が、各都府県の民主教育のセンターを運営したり、そこで研究活動をされている方が多いため、全教が主催する各種の学習交流集会よりは平均年齢が若干高めだというのは特長として挙げられると思います。

 

 

 

道徳の分科会の中で、グループワークがありました。そこでの出来事です。

 

ないとうとともに、「どうしたら道徳性の教育を柱に据えて広く連携する運動になるか」というようなことを話すことになりました。そこに集ってくださったのは、年配の先生方3名です。

 

 

 

自己紹介を兼ねて、所属や課題意識を話します。すると3人とも異口同音に…

 

「若いときは、宗谷の教育合意運動に学ばせてもらった」

 

と言うのです。

 

 

 

さらに、昨今の道徳の教科化について具体的な運動の話になると…

 

「目の前の子どもたちの実態を語る『こども議論』を大切にしていきたい」とか

 

「学校としてそこから重点となる実践を定めていって」

 

「もちろん、そこには保護者の願いがあるし『一緒に考えましょう』ってわかりあいたい」

 

というような宗谷で、『教育課程づくり』を語るときによく話すことが自然と語られるのです。

 

 

 

分科会の最後には、「宗谷の先生と『教育課程づくり』について語れるとは思わなかった。うれしいよ、ありがとう」と言ってくださって、こちらが恐縮してしまいます。

 

そして改めて感じます。

 

私たちが、宗谷の先輩の先生方と一緒に仕事をする中でまるで空気のように、自然と味合わせてもらっている教育実践というのは、こうして全国の先生方とも切磋琢磨し合える価値あるものだということです。

 

 

 

10年に一度の教育課程づくりという大きな対話運動。

 

それは狭い意味では「これからのうちの学校の教育をどうしていくのか」ということである一方で、もっともっと広く考えると「宗谷の教育運動を体感的・体験的に10年後・20年後につなげる」という大運動なんだと気づかされます。

 

だからこそ、この10年に一度の節目に、教職員組合として何ができるかをじっくり考えていきたいと思いました。

 

 

宗谷教組では今年、学習指導要領や改訂に伴って各学校で知恵を出し合う「教育課程づくり」について時間を取ってきました。

 

事務所にあるこれまでの財産をざっと振り返ると、毎回大きな特徴があります。

 

 

 

30年前。

 

週5日制になろうかという頃。

 

「学習指導要領撤回を求める大運動」として、地域の方々と教育のあり方を語り合い署名をお願いする大きな大きな取り組みがありました。

 

 

 

20年前。

 

総合的な学習の時間が始まろうかという頃。

 

稚内の学校のある学校では、子どもたちの「ぶっちゃけ、勉強わかんない」という声に気付き、その声に応える学校づくりを考え合ったといいます。「ベルト学習」という名前のその学校の朝学習は今ではどこの学校でも行われているものですが、ねらいや本質をしっかり確かめ合って始まったといいます。

 

 

 

10年前。

 

北海道ではいわゆる「職員評価制度」の導入が取り沙汰されていた頃。

 

昔の教育課程づくりを後世に残そうと、わかりやすく教育課程づくりの手法を伝えようとしてくれていました。教職員組合は評価制度への対応に追われていたものの、それを受け継いだといえるのかもしれません。

 

 

 

そして今。

 

来年から取り組むことになる小学校の道徳や、外国語に関わる移行措置への対応が求められます。

 

そしてなんといっても、2020年・2021年から学校はどんな教育活動をしていくのかということを考える大切な時期に入ります。

 

 

 

教育基本法が掲げている「人格の完成」ということを大切にして、どんな学校をつくるのか。

 

目の前の子どもたちの願いや実態、地域や保護者と「学校づくり」観を共有しあいながら、学校づくりを考えていくこと。

 

そして、何よりその背景として、今の時代が何をもってこういう時代になっているかを、雰囲気やムードではなく、正しく理解して、学校づくりを考えていくこと。

 

 

 

そうしたことを考えるヒントに、学び合うことを大切にしていきたい。教職員組合として、そう願っています。

 

 

 

日々の多忙さや多忙感の中で、工夫をし合いながら進めていきたいものです。

 

例えば、職員会議での議題にするとか、学校研究として「教育課程づくり」に取り組むなど、今の時代だからこその方法はあるはずです。そんなテクニックも大切にしながら、ずっと大切にされてきたこの「教育課程づくり」という取り組みを、今の学校、今の教育の情勢に照らしながら考えていきませんか?

 

 

本部のないとうです。

 

秋から冬へ、

 

そして春に向かっての教育研究運動について考えている中で、

 

自分自身の実践を振り返ったりもしています。

 

 

 

今回は「実践」というより、日々の子どもとのやり取りについてです。

 

 

 

まだ若かった頃。

 

期限付2年を経て正採用になり、

 

単学級20名弱の子どもたちを担任する日々のこと。

 

例えば、中休みにケンカしたとか、

 

誰かから「イヤなことされたの」と訴えがあった相手の子とか、

 

 

ちょっと時間をとって話をする機会っていろいろあります。

 

 

 

そんなとき、子どもが自分で話すまでずーっと待っていることがよくありました。

 

これ、時間かかります。我慢比べみたいになります。

 

でも、若いときはそれでいいのかなと思っていました。

 

 

 

稚内に異動した採用6年目。

 

始めての低学年、2年生を担任したときのこと。

 

同じような場面で、黙って困っている子との沈黙の後でふと…

 

「ねぇ、今もしかして『●●なんだよな~』って思ってるんじゃない?」と

 

軽い感じで言ってみたことがありました。

 

子どもがハッとした顔をしたのを覚えています。

 

そこから、こうしたやり取りが楽になりました。

 

 

 

考えてみれば、先生と一対一であまりよろしくないコトを話しているときに、

 

勇気が持てずに言い出せなかったり、

 

「怒られるんじゃないか」ってびくびくしていたりすることもあるはず。

 

 

 

そんな時には、先生の側から話のきっかけを作ることも必要なんだと思いました。

 

大事なのは、「この出来事からどうするか」を考え合うことなのかなと思うので。

 

 

 

◆ ※ ▲ ※ ▲ ◆

 

 

 

どうしてこんな昔のちょっと恥ずかしい(?)話を書いたかと言うと、

 

こういう指導観に関することのように、

 

子どもたちを真ん中に置いたような教育を語る営みが、今こそ大事だと思うのです。

 

 

 

学習指導要領が代わり、教育課程づくりを進める今だからこそ。

 

教育という営みが、人間的な営みでありつづけるために。

 

 

 

そして何より、

 

「いい先生になりたい」と願う先生方と、

 

子どもたちの健やかな成長を見守っていくために。

 

 

 

だからこそ、

 

「こういうやり取りをしてね」とか

 

「こんな授業をしたら、子どもたちがこんなふうに考えてくれて」とか。

 

「こんな言葉を残してくれて、これってこういうことだと思うんだ」というような、

 

子どもたちを真ん中に置いた教育研究運動を進めていきたいと思うのです。

 

 

 

文化を創る…ような壮大なものかもしれません。

 

でも、教育条理というものは、こうして豊かになってきたとも言えると思うのです。