本部のないとうです。

 

秋から冬へ、

 

そして春に向かっての教育研究運動について考えている中で、

 

自分自身の実践を振り返ったりもしています。

 

 

 

今回は「実践」というより、日々の子どもとのやり取りについてです。

 

 

 

まだ若かった頃。

 

期限付2年を経て正採用になり、

 

単学級20名弱の子どもたちを担任する日々のこと。

 

例えば、中休みにケンカしたとか、

 

誰かから「イヤなことされたの」と訴えがあった相手の子とか、

 

 

ちょっと時間をとって話をする機会っていろいろあります。

 

 

 

そんなとき、子どもが自分で話すまでずーっと待っていることがよくありました。

 

これ、時間かかります。我慢比べみたいになります。

 

でも、若いときはそれでいいのかなと思っていました。

 

 

 

稚内に異動した採用6年目。

 

始めての低学年、2年生を担任したときのこと。

 

同じような場面で、黙って困っている子との沈黙の後でふと…

 

「ねぇ、今もしかして『●●なんだよな~』って思ってるんじゃない?」と

 

軽い感じで言ってみたことがありました。

 

子どもがハッとした顔をしたのを覚えています。

 

そこから、こうしたやり取りが楽になりました。

 

 

 

考えてみれば、先生と一対一であまりよろしくないコトを話しているときに、

 

勇気が持てずに言い出せなかったり、

 

「怒られるんじゃないか」ってびくびくしていたりすることもあるはず。

 

 

 

そんな時には、先生の側から話のきっかけを作ることも必要なんだと思いました。

 

大事なのは、「この出来事からどうするか」を考え合うことなのかなと思うので。

 

 

 

◆ ※ ▲ ※ ▲ ◆

 

 

 

どうしてこんな昔のちょっと恥ずかしい(?)話を書いたかと言うと、

 

こういう指導観に関することのように、

 

子どもたちを真ん中に置いたような教育を語る営みが、今こそ大事だと思うのです。

 

 

 

学習指導要領が代わり、教育課程づくりを進める今だからこそ。

 

教育という営みが、人間的な営みでありつづけるために。

 

 

 

そして何より、

 

「いい先生になりたい」と願う先生方と、

 

子どもたちの健やかな成長を見守っていくために。

 

 

 

だからこそ、

 

「こういうやり取りをしてね」とか

 

「こんな授業をしたら、子どもたちがこんなふうに考えてくれて」とか。

 

「こんな言葉を残してくれて、これってこういうことだと思うんだ」というような、

 

子どもたちを真ん中に置いた教育研究運動を進めていきたいと思うのです。

 

 

 

文化を創る…ような壮大なものかもしれません。

 

でも、教育条理というものは、こうして豊かになってきたとも言えると思うのです。